Thinking

「ベトナムについて」


シンクベトナム(THINK VIETNAM CO,LTD.)
雲南に発して東に向かい広大なデルタを形成してトンキン湾に注ぐホン河を挟んで、ハノイ中心部から北西約四十キロの位置にヴィンフック省ビンスェン工業団地はあります。空港を出てハノイ方面に向かい約一キロ先を右折して二十分程度走れば、その工業団地の一角にある私の工場に着きます。アジアの発展途上の国々の中において最も日本との協力関係が強まり、親日的な感情を強めていくのがベトナムであるだろうとの考えから、最初の海外生産拠点としてベトナムを選びました。今の時代、日本が西洋に近代国家のサンプルを求めたようには単純ではないにしろ、おそらくベトナムが近代化において手本とするのは日本であるだろうし、地理的条件としてその背後には成長を続ける東南アジアがあります。そこには多くの人口を養える肥沃な土地と豊かな水があります。
二〇〇七年から準備を始め、今年で法人設立七年目を迎えます。若くて安価な労働力の豊富さ、識字率の高さ、儒教を背景とする日本人とのメンタリティーの近さ、親日的な政府、それは確かにその通りでしょう。しかし街は法規を守る意識の低いバイクの群れで溢れ、行政手続きは非効率であり、法律やディシジョン、サーキュラーと呼ばれる守るべき規則は煩雑であり、様々な場面で予期せぬ金銭が必要になる事もあります。交通に関して当社の従業員の例でも両親が一台のバイクで移動中二人共亡くなるという事故が起きました。遵法意識の低さによる交通事情の悪さはベトナム国家にとって大きな損失でしょう。日本の明治政府が行った遵法精神を植え付ける為の強権的ともいえるような手法も必要なのではないかと思ったりもします。行政的な非効率さについては現場を担当する公務員の不慣れさ、不勉強さを感じますが背景には公務員給与の低さがあり、国家財政の脆弱さがあるのだと思います。市場経済を取り入れてからの時間の短さもあるでしょう。個々人の中に国家とはどうあるべきかという国家観が醸成されていないように感じます。
人事に関する例として当社の日本人スタッフがヴィンフック省の省都ヴィンエンで暴行を受けるという事件がありました。小さな不正の発覚から日本人のベトナム人スタッフに対する不信感が高まり解雇するに至ったのが原因ではないかと推測されています。嫌がらせのような事件が数ヶ月続き神経を磨り減らしたのですが、現地スタッフ、ワーカーと話し合い、しっかりとコミュニケーションを取る事で沈静化していきました。この件で感じたのは、異国での緊張と言語の障壁があるにせよ日本人スタッフのコミュニケーション能力の低さです。教養の問題かもしれませんが何かが起きれば固まってしまう、或る固定した観念の中で個人を見られて愉快に思う人はいないでしょう。国民や社会の後進性、固有性を見る前に人間及び社会の普遍性に対する信頼を持つべきです。どの社会においても問題はリーガルにだけ解決を図れるものではなく、感情もあれば文化習慣の違いもあります。
ベトナムに対し今後は単なる安い労働力を求めて進出を考えるのではなく、ベトナムと一緒になって働くという感覚が必要だと思います。日本人の指示通りに動くのがいいという意識ではなく将来は起業してみようと思うような進取の気性に富んだ若者を育てることも必要でしょう。ベトナムの産業構造の厚み、社会の安定の為にも裾野産業育成の重要性は以前から指摘されていて、その意味でも今後は中小企業の進出が重要になると思います。大きな歴史の転換点を思わせる今、互いに新しい時代を作る為一緒になって努力してみたい、資本主義が全てにおいて社会主義より優れている訳ではなく日本の社会が全てにおいてベトナム社会より優れている訳でもない筈です。日本も様々な行き詰まりを露呈し始めている気がします。成熟した国と若い国、持ち過ぎた国と足りない国、ベトナムと日本の間には互いに補完し合えるものが多くあります。ベトナムを知ることは日本を理解することに繋がります。
会話としてですが、
鬱陶しい湿度の高い夏の昼が過ぎてヴィンエンの市場から街に出ると空気中の水蒸気を夕日が染めて街は淡く赤い霧に包まれています。このホン河デルタの風土の中にワーカー達は暮らしているのだと思い様々な感慨が込み上げて来て、感傷的な気分に自分を染めていきます。
2015年8月   小林敏明


 

「農業について」


シンク明野農場 - 山梨県北杜市
農業を始めてみようと思って北杜市明野町の芽が岳山麓に一万八千平方メートルほどの土地を購入した。近頃は食糧自給率の低下の問題や食品の安全性の問題、世界の食糧危機への懸念、また環境保全の見地からも農業は見直されてきているし、そこにビジネスチャンスを見ている企業家も少なくないようだ。また一方で現今の雇用機会の減少という状況もある、人手を食うような仕事、所謂労働集約形の産業の海外流出が進み、高度経済成長時代のようには製造現場は労働力を吸収できなくなった。一次産業を活性化すれば就労機会も増える、そこに地方の再生も見える。
しかし、以上のような社会的観点とは別に、私には一個人として現在の仕事と生活のありように対する疑問があって、その事を述べ、考えてみようと思う。
私は最近は自分達の仕事を「工芸的微細金属加工業」と呼べと社員に言っているが一般的に有り体に言えば「飾職」ということになるのだろう。他の業種に比べればまだ人間の感覚と習熟した技能に頼る仕事だとは思うが、機械化分業化の流れは確実に作業現場を変えてきているように思う。確かに生業が専門化し単能化すれば生産するものをより精密に効率よく大量につくり出す事には有利ではあるだろう、しかし何か物の力を失っていくような気がしてならない。人間が力を失っていく、力あるものを作り出せない。
夏は冷房、冬は暖房という環境の中にいて、自らの手を使い汗をかく機会は少なくなってしまった。アランは「硬き物に刻む者こそ幸いなれ」と言ったと思うが私達は硬き物と格闘することで認識を深めていく精神の軌跡を見たいのだろう、刻むことが困難であればあるほど人も造形も純化していく、私達は体験することでしか認識を深めることはできないのではないか。深く考えようとすることが常にラジカルな行動へと向おうとするのはその為ではないのか。
技術の伝承の上でも私達は「体で覚える」ということの意味を忘れてきている。社会が肉体を置き去りにする。脳と体は不可分なもののはずで現代の人間は手が働かないから頭が働かない。知恵とは知識が肉体化したものであるなら汗にまみれ肉体を酷使することでしか見えないものがある。
近頃製造現場における個人の技術力の低下という指摘をよく耳にする。「技術立国日本」といい、結局日本は物作りを基本として世界に存在感を示すしか方法はないのではないかといってもその土台を支える個人レベルでの技術が劣化したら無理な話だろう。この国は多くの職人達の高い意識と技術が支えてきた。それが今なぜ基礎的技術力は低下したか、一つには労働集約形の産業、人手をついやす仕事の機械化、自動化また海外流出という背景がある。同じ作業を繰り返し行って体で覚えるという機会が少なくなっている。技術力が高いという意味は知識と体が高度に均衡していることをいうのだろうが、反復させて教えることができなくなった。頭脳労働の方が肉体労働よりも上等であるかのような錯覚もあって、単純労働だ日本で作ったのでは高くなるといって機械化する、海外にもって行く。日本では企画や試作などに特化する。経営的にみれば今のグローバル化した世界では必然の選択だろう。単に経済的な理由からだけではなく今の思潮の中でグローバル化は避けられない現実だろう。しかしそれは我々の個性や優位点を失っていくことであってはならない。
習熟した技能とは無駄のない動きのことだろうし造形の美しさとは無駄のない形のことだ。無駄のない動きを身につけるためには同じ動きを何回も反復してみるしかない、疲れない動きを知るためには疲れてみるしかない。
日本の工芸の歴史を俯瞰すれば、春から農業生産に従事し、秋に冬を越すための食糧備蓄ができれば春までの農閑期に物作りにいそしむ、そうしながら我々は生き、社会を形作り、物を作るための技術を伝承してきた。生命を存続させるということの手触りを知るからこそ気付くことのできる美しさがある、観念の罠に陥らなくて済む。
先日も八百屋の前を通るとカボチャが一つ三百円で売っていた、その値段が高いのか安いのか私にはわからないが単純に三百万の売り上げを上げようとすれば1万個売らなければならない、原価が三分の一だとすれば一万個のカボチャを作って百万円にしかならないことになる。さらにその中から肥料代も農薬代も機械代も差し引かなければならないだろう。労働の対価として手許に残るのは六、七十万と いうところか。それが今の農業の現実だろう。単に収入を得るための生業としてみれば割に合わない仕事だろう。しかし今の農業が考えるべき諸々の矛盾を孕んでいるにしろそれは社会や生活のありように対する様々な気付きを与えてくれるだろう、何よりも我々の負った生に対する感覚の傷を修復してくれるはずだ。春には芽吹き、根は土中に伸び養分や水を集める、夏には枝葉を拡げ秋には葉を落し冬には寒さに耐えて芽吹きを待つ、そして我々はその中で収穫のために汗を流す。
来年からは新しい就労スタイルの提案として、ローテーションを決めて当社の若者達を農業に従事させるつもりだ、労働による肉体の疲労を覚えさせる。その時観念はどう変化するか、精神はどう変化するか。生きることの実体を感得すること、その糸口になってくれることを願う。そうすれば、私から「お前らは恐るべき頭の悪さだなあ」などと悪態をつかれずに済むような若者になるかもしれない。
蛇足ながら叙述の展開に力が入り過ぎているとは思うが貧弱な腕力をも顧みずたまには直球をど真ん中に投げてみたい心情になることもあるということで御理解願いたい。
2009年 夏   小林敏明


   
 
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